長倉顕太さんが新しい本を出した。
親は100%間違っている
なんとも過激なタイトルだ。
自分も一人の親として、100%間違っていると言われてちょっと苦笑。
いかにも長倉さんらしいなと。
この本を読んで一番感じたのは、私は長倉顕太という人に出会えて本当に幸せだということだ。私がずっと悩んでいたことや疑問に感じていたことに対して既成の価値観を破壊し、実に明快で分かりやすい私に必要な価値観に気づかせてくれる。自分が本当につまらないことで悩んでたのだと気づかせてくれる。
長倉さんを知ったのは約1年前、パワーパーソン養成プログラムというセミナーの説明会に参加したことがきっかけだった。今まで自分が出会ったことのないとんでもないオーラを発したとんでもなく怪しい人だった。そのとんでもなく怪しい人が発する一言一言がなぜか胸にグサグサと刺さってくる。なんだかわからないままにプログラムに参加した。
はじめは、とっつきにくくて難しそうな人だと思ったが、話を聞いているうちにこの人は本気だと思った。本気でみんなを変えよう、世の中のつまらないしがらみから解き放とうとしているのだと感じた。ぶっきらぼうなものの言いよう、過激な内容の中に間違いない「愛」が感じられたからだ。
どんな自分でも良いのだ、他人の評価など気にしなくて良いと声をかけてくれている。
私は、そういう長倉さんが大好きだ。
これからも自身の生き方を考える上で学ぶべきものが多い。
何よりも多くの人に愛されている。
長倉さんは、若い人が好きなので、私のようなジジイに好きだと言われても本人喜びはしないだろうが、本当に出会えて良かったと心から思っている。
この本のベースに流れるものは、他人の価値観、他人から与えられた価値観による人生を生きるのではなく、自分の価値観を軸とした人生を生きろということだと思う。
「いや俺は自分の価値観で生きているぜ」って人も、この本を読めば衝撃を受けると思う。親や教師、会社の常識みたいなものにどれだけ影響を受けているのか、他人の軸による人生を生きているのかということを感じることができると思う。私は長倉さんに相当価値観を破壊されてきているので、この本を読んでも共感する部分の方が多いが、知らない人には本当に衝撃だろう。
一旦、自分の価値観を疑え否定してみろと、この本に書いてある。既成の価値観に対して何の疑いもなくただ毎日を生きていたら、この本にある
「なんとなく」生きているんじゃなくて、「なんとなく」死んでいる
人生を歩むことになると思う。
刺激のない、安定した、成長のない人生なんて死んでいるのと一緒だというのは本当にそう思う。自分もそうだったが、死を意識することなく、なぜかいくつになっても生きていると思っている。だから、老後なんてあるかどうかわからないもののために今を我慢してお金を貯めようとしている。
長倉さんは、あなたが「余命1か月」と宣言されだとしても、今と同じ生活が出来るかと問うてくる。
どうだろうか。長倉さんはその自信があるというが、私にはその自信はない。きっと、余命1か月って言われたら別のことをやりたいと思うだろう。死ぬまでにせめてそれをやって自分が生きていた証を残したいと。
じゃあ、なぜそれを今やらないのか。
この本を読んで、自分に足りないものは「覚悟」だろうと思った。
きっと、オレに影響を受けて行動している人は「お前、頭おかしくなったんじゃないか?」って周りに言われていることだろう
そう書かれているが、それなら既に言われている。
私の投稿を見た人から、大丈夫か、病んでるんじゃないかと言われる。
まだまだ覚悟が足りない自分だけど、そう言われることがあるってことは、自分が描いている方向性に少しは自信を持っていいのだと信じたい。
長倉さんの言葉に勇気を与えられる。
ほんと、それっていいことだからな。自信を持っていい。そんなことを言うヤツらは、みんな大したことないだろう。そいつらみたいになりたいか?なりたくないだろう?
加えて、このようなことが書いていある。
日本に産まれたことこと自体、宝くじに当たったようなものだ
まさしくその通りかと思う。
自分の周りにも、その上まだ宝くじに当たろうとして、当たったらこんなことしようなんて考えている人が多い。自分もそうだったけど。
宝くじに当たったことを活かせるかどうかは自分次第だから、自分自身にとって厳しい環境にいかに身を置き、どれだけの覚悟を自分が示し、どういった生き様を見せることができるのか、天にそれを試されているのだろうと思った。
自分はまだまだだが、そういう方向に進む勇気を与えてくれる一冊である。
生きているすべての人、必読の書かと思う。
「俺は「なんとなく」死んでいる人生で満足だ」という人は別だが、人生を楽しんで生きてきいたい人は是非とも手に取ってほしい。初めて長倉さんに触れる人には劇薬かもしれないが、その毒に耐え毒が抜けた時には、ぶち壊された価値観の前に希望を見出している自分がいると思う。