ミシェル・ウェルベック「服従」

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この本は、フランスがイスラム政党に政権を握られ、イスラム社会に変貌していくというフィクションを書いた話。

本書の中でヨーロッパの凋落を述べる有力な政治家であるルディジェの言葉

人類の頂点にあったこのヨーロッパは、この何十年かで完全に自殺してしまったのです

ヨーロッパ全土にアナーキズムとニヒリズムが起こり、それは暴力を喚起し、あらゆる道徳的な法を否定しました。それから、何年か後、第一次大戦という正当化できない狂気によって何もかもが終わりました

世界で最も文明化を遂げていたフランスとドイツがこの信じがたい殺戮に自らを投じたのだから、ヨーロッパはもうお終いなのです

実際、西洋型の資本主義社会がもう限界を迎えていると、なんとなく多くの人が感じているのではないかと思う。

 

大学教授であるフランソワをイスラム勢力側に取り込むための説得にあたって、ルディジェは以下のように述べている。

自由な個人主義という思想は、家庭、すなわち人口構造、という究極の構造を変容しようとした場合には、失敗する

  • 先進国に富は蓄えられたが、貧富の差や環境破壊、テロ、食料問題、労働人口の減少に端を発した移民問題、国家間の衝突など、恐らく、多くの人々が、様々な部分で人類の今後としての限界を感じているのではないか
  • このまま自由な個人主義という西洋型の資本主義が今後さらに発展するということが信じられるのだろうか
  • 西洋文明をベースとした社会構造に終焉が来ており、時代は転換点を迎えているのではないか。

この本は、そういったことを考えさせる。

昨今のビジネス書の類を見ても、収益中心の個人主義をベースとしたものではなく、人との関係、コミュニケーション、幸せとは何かといったような、精神論的なものに変わってきているように思える。そういう意味では、この本に書いてあることは、あながち荒唐無稽な空想ではないのではと感じた。

物質的に近代社会は凄まじい発展を遂げた。世の中は非常に便利になり、多くのものが生み出され、同時に多くのものが破壊された。

今の物質的便利さを捨てて、産業革命以前の世に戻るなどというものは、それこそ荒唐無稽な馬鹿げた考えであるが、物質的な発展とは軸を違えたところで時代は巡っており、そういう回転の渦の中、今の我々はちょうど転換期にあって、精神的なものの考え方、人としての生き方といったものの価値観が今後劇的に変わっていくのではないか、そんなことを感じた。

ルディジェはこんなことも言っている。

雄の間での不公平は一夫多妻の倒錯的な結果ではなく、まさにそれこそが本来到達すべき目標だというのだ

貧困は、質素な生活を送る多くの大衆と、あらゆる贅沢を享受するごく一部の金持ちの間の大きな隔たりを維持するのに貢献している。それらの金持ちは十分に裕福な故に、過剰で常軌を逸した消費に身を任せることができ、それが、豪奢な文化、豊かな芸術を育成し、支援することにつながるのだ

これこそが、キリスト教による価値観の否定。全てが平等だという幻想、それこそがまさしく社会の歪なのではないかと述べているのだと思う。

一夫多妻制というと、多くの妻がいて羨ましいとか、そういう倒錯的なものの見方をする人もいるが、そうではなく、人類も動物である以上、一夫一婦制というのは、「環境に適応したものが多くの遺伝子を残すべき」という自然淘汰に逆らった悪しき風習だとも言えなくはない。

さらに、今のこの資本主義で集中した富が、どのように文化、芸術の保護者となり得ているのか。企業は(企業だけでなく政府までも)、採算の重視や効率性の追求に躍起になり、個人は、その企業に情報操作された物質的な自己満足に金を費やしている。個人の富は、ごく一部の富裕層に流れ、貧富の差は益々拡大している。

イスラームの教えについても、よく目にするものは、タリバーンやイスラーム国に代表される原理的なものや破壊的なものが多いが、それは表面的なもので、イスラームに脅威を抱く、欧米側の情報操作である可能性も否定できない。

私はイスラーム教徒の知り合いがいるが、ごく普通の生活をしているし、豚肉は食べなかったが普通にお酒も飲んでいた。どの程度厳しく教義を守るかについては、国や地域によって格差が大きいらしく、インドネシアとイスラーム国の住人では、同じイスラーム教に帰依していると言っても、大きな隔たりがあるようだ。

では、イスラームなのかという点については、どうなのだろう。

ヨーロッパについて言えば、生活や教育、道徳に至るまで、根深く宗教がベースとなっており、ヨーロッパが自殺を遂げたとはいえ、本書のようなことが現実化するためには、本当に根底から変わらねばならず、その時には、もしかしたら、とんでもない大惨事、それこそ、第三次世界大戦を呼び起こすような、激しい騒乱を起こす可能性もある。

キリスト教とイスラーム教という中世からの対立を考えた場合、本書にあったように、そう簡単にイスラーム世界が、ヨーロッパで受け入れられる(ヨーロッパがイスラームに服従する)ということは難しいように思う。

だからこそ、次の世界に必要なのは日本やアジアなのではと思った。

この本に書いてあった、

  • 家族を中心とした世界
  • 男性が女性を守る世界
  • 職人的な仕事が中心となる世界
  • 身分がはっきりしている世界
  • 相互助け合いの世界

これらは、日本文化(あるいは、アジア文化と言ってもいい)の下地になっているものではないかと思う。

明治維新により、旧来の価値観を捨て、欧米の価値観の導入に積極的に踏み込み、欧米に遅れまじと周辺各国と争い、二度の世界大戦にも参加した今の日本は、ヨーロッパと同じ穴の狢なのかもしれないが、日本には旧来、ヨーロッパとは全く異なる文化、価値観があった。

明治維新で長州・薩摩の連合軍は、旧来の徳川的な史観を否定することで、近代日本の礎を築いたのであり、その元としたのが、当時、人類の頂点にあったヨーロッパであったということ。
旧来の史観を否定しなければ、政府軍は自分たちの正当性が守れなかったのである。

今こそ、本当に日本的なものの素晴らしさを見直し、日本が世界に対して、今後の世界の在り方というべきものを示していく、それは、イスラームではなく、日本にある、未だに日本人の心の中に根ざしている旧来の日本の素晴らしさを世界に示すことではないかと思う。

宗教に根ざしたものではない、全てを受け入れることのできる、日本の懐の深さ。それこそが、未来の世界を作っていくなんらかの基準となり得るのではないか、そんなことを考えさせられた。

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