私の人生における長い旅の終わりと始まり

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昨年の3月から始めた1年にわたる長い旅がひとまず終わりを迎えた。今まで知らなかった世界を知り、今まで会ったことのなかった人と会い、今までしたこともない経験をした本当に充実した1年間であった。
 
まずは、この場を与えて下さった方々、出会えたみんなに感謝をしたいと思う。
 
思い起こせば始まりは、去年の3月にFacebookの投稿からパワーパーソン養成プログラムの案内を見て、加藤秀視さんと長倉顕太さんのことを知り、その二人に惹かれるようにプログラムに参加することを決意したことから始まった。
 

当時は、家庭環境や会社での自分の立ち位置に悩んでいた。自分が順調だと思っていた状況がどこか変わり始め、様々な葛藤を抱え、本来の自分自身を見失っていた自分がいたように思う。
 
そんな私が、この約1年をかけてきた旅を通じて得たものは、自分というものについての再認識であったと思う。本当の自分、良いところもあれば悪いところもある自分。特に自分が嫌いな自分の部分(弱さ、汚さ、せこさ、卑怯さ、狡猾さ)を自分で認めて、そんな自分でも周りから愛されているんだということに気づくことであった。
 
自分自信を取り戻すために必要なもの、自分の自信を司るもの、恐怖に打ち勝つ勇気を与えてくれるものが何かということを知らなかった自分が、「それ」が何かということを知り、そして、「それ」が本当に自分自身に自信と勇気を与えてくれるのだということを体感してきた旅であったと思う。
 
「それ」とは自分を愛すること、「自己愛」だ。
 
自分を愛するというとナルシズム的なものを想像するかもしれないが、そうではない。「自己愛」とは自分自身の醜い部分も全て含めて、自分自身を認めてあげることだ。そのままの自分で十分なのだということを知ることだ。自分の子供を愛するように、愛するパートナーに接するように、良いところも悪いところも全てを受け止め認めて自分を愛してあげることだ。
 
決して、他人にどう見られるかを気にして自分の見た目を整えたり、他人に対して自分を誇るためのものではない。それは旅を始めるまでの私であって、常に不足を感じ、満たされないことを何か別のもののせいにして、人の目を気にし、自分の弱さに向き合わず、そこから目をそらして虚栄を張っていた自分のことである。
 
子供の頃から自分の家が貧乏なのが嫌だった。うちの家は、古い平屋の借家で、綺麗な家に住んでいる人が羨ましかった。両親は共に中卒で学もなく、親父はエンジンを作る炉が煮え滾る三菱自動車の工場で働いていた。母親は近所のスーパーでパートで働いていた。両親にもっと学があれば、もっと収入があれば幸せになれるのになんて思っていた。
 
子供の頃から遠方に旅行などに行った記憶はあまりなく、親父が自分と遊んでくれた記憶もあまりない。親父は釣りが趣味で、休みになると、私たちのことは放っておいて、釣りに出かけて行った。子供のことなんか興味がないんだろうって思っていた。若い頃から病気がちで、いつも辛そうでイライラしている姿が記憶に残っている。
 
自分に学があったら、お金があったら、もっと綺麗な家に住んで、欲しいものが買えて幸せになるんだろうって思っていた。だから絶対に大学に行こうと、いい大学に行こうと思って勉強したし、超のつく大企業で20年以上働いてきた。
 
私の妹の娘、私にとっての姪っ子、親父にとっての初孫が産まれた時、子供になんて興味がないのだろうと思っていた親父が驚くほど姪っ子を可愛がった。可愛くて仕方ないようで、それこそ目に入れても痛くないとはこのことかというほど可愛がった。姪っ子も「おじいちゃん、おじいちゃん」と、親父に、それこそ父親以上になつき、姪っ子の父親である私の義理の弟が、自分の娘が少しも自分に懐かず親父の方にばかり行くことで少し拗ねたこともあったぐらいだ。
 
私は、その時は、親父も変わったなぁ、孫はやっぱり可愛いんだろうなぐらいのことしか思ってなかった。
 
私の息子が姪っ子から3月ほど遅れて産まれた。親父の孫愛が更に深まった。私は当時から東京で働いていたので、親父は息子に年に何回かしか会えなかったが、親父の私の息子を可愛がる姿と言ったらそれは驚きであった。子供達の写真をアルバムに整理し送ってくる、遊びに行ったら、子供達を常にどこかに連れて行こうとする。子供達を本当に愛している親父の姿がそこにあった。
 
それほど愛された記憶のない自分としては、驚きと羨ましさが混じったような不思議な思いがした。自分のことを十分に可愛がらなかった分、孫で罪滅ぼしをしているのかぐらいの事を思っていた。
 
今朝、目を覚ました時、ふと気がついた。
 
親父は私や妹の子供のことを人が変わったように可愛がっていたのではなく、私のことを愛したのと同じように孫のことも愛していたのではないかと。そう思った瞬間、ベッドの中で涙が止まらなかった。私はそんなことすらわかっていなかった、今日の今日まで分かっていなかったんだなと思った。
 
色々と私に多くのことを与えてくれた両親の姿が心に浮かんだ。病気がちだったのに過酷な環境で働いてくれた父、節制をしながら私を大学まで行かせてくれた両親、スーパーで働いていたが、私と妹が寂しがるだろうと家で仕事ができるよう苦労していた母、日帰りだったが毎年海水浴に連れて行ってくれた父、私がグレそうになるのを体を張って叱ってくれた父、私が高校生の時に手術に成功してからとても明るくなった父(これが本来だったのだろう)、知り合いの子供たちに優しかった父、思い出せばきりがない。
 
自分がこれまでどれほどの多くの愛に囲まれて生きてきたのか。もっとも身近である父親からの愛すらきちんと受け取れていなかったのだなと、そんなことすらきちんと理解をしていなかったのだなと、そう思った。今の今までだ。私の子供好きは父親への反動かと思ってさえいた。
 
私がFacebookの投稿を始めた時に、心配して色々とメッセージを送ってきてくれた友達がいた。会社の同僚からも多くの愛を受け取っていたことに気づいた。自分は今まで多くの愛に囲まれていたにもかかわらず、それをきちんと受け取ることができていなかったのだなと、そういうことを感じ、それを感じることができるようになったことに本当に幸せを感じるようになった。
 
これこそが、この1年間で自分の学びの中で、自分自身を再認識してきたことだろうと思う。
 
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1年の旅の始まりと終わりの舞台となった大磯の海

 
この1年に及ぶ旅は終わりを迎えたが、本当の自分自身を見つける旅はこれからが始まりである。この1年の経験で、自分の人生の可能性が大きく広がったように感じることができるのが一番の幸せだと思う。次の1年を終えた時の自分がどうなっているか楽しみになってきた。
 
私は、この1年の旅の間に、私が「自己愛」の必要性を世の中に伝えていく役目を担っている、そういう役目を与えられているのではないかとそんなことを思うようになってきた。私はそのために人生を捧げることが喜びにつながるのではないだろうかと思うようになってきた。
 
これから私に試されるのは「覚悟」であろうと思う。
 
既に48歳の私に、どれほどの人生が残されているのは分からないが、この1年の旅で経験したこと、自己愛の必要性を知る旅から戻り、それを知らせる次の旅に出ることが私の使命なのではと感じる。さて、これから何をしようか、どこに行こうか、それを決めるのは自分自身だ。自分自身の「覚悟」がそれを決めるのだと思う。
 
いつ死ぬかわからない人生、どうやって生きていこうか。
私の好きな坂爪圭吾さんのブログの締めの一言をお借りしたい。
 
「人生は続く」
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