本来の自分を取り戻すために考えてみること 〜 他人軸ではなくて自分の軸を取り戻す

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最近思うのは人のことなんかに構ってる暇はないってこと。
 
誰ががこんなことしたとか、あれはダメだとか、そんな人を批判する内容が世の中に満ち溢れているが、人のことを非難したりする暇があったら、自分が楽しむことに時間を使った方が良いに決まっている。
 

そもそも、人を非難できるほど自分が真っ白な存在なのかってこと。少なくとも私はそんなことないので、人の行動を非難するなんてことは恥ずかしくてできない。むしろ、非難されている人がかわいそうだと思うし、自分だっていつ非難される側に回るかわからない。そんな時にどんなことを考えるのかってことだろう。
 
罪を憎んで人を憎まずというのが、日本人の本来の心なのではなかったかとそう思う。
 

 
少し話はそれたが、重要なのは全て自分目線で考えるということであり、自分がより楽しい、幸せだと思うことをやるということだ。自分もそうだったけど、他人の行動をどうこう言うより前に、自己の充実が最も大事だということを忘れているのだと思う。
 
他人軸での情報に流され、「こうあるべき」なんてことに囚われて人を非難する。何とかであるべきなんてことに囚われていたら窮屈で仕方ない。それは、こんなことしちゃダメという制限であって、自分の心を縛る箍に過ぎない。全て他人から与えられた価値観であり、それにより自分がやりたいことを制限していないかということに目を向けた方が良いと思う。
 
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「迷惑をかけちゃいけない」なんて他人目線の代表的なものではないかと思う。確かに人に迷惑をかけることはダメなことなのかもしれないが、何を迷惑と思うかどうかもその人次第であり、迷惑になるかどうかなんてやってみないとわからないのだから、人に迷惑をかけないなんて他人目線でしかわからないことに捉われて自分を殺していては意味がないと思う。なら好きにやろうよって、本当にそう思う。
 
一番問題なのは、こうあるべきという自分の中にある窮屈な価値観が誰から与えられたものなのかも分からず盲目的に従っていることだと思う。そこに疑問を感じる自分としての軸が必要なのだと思う。
 
その窮屈な価値観が、罪悪感を呼び起こし、自己の行動を抑制する。その抑制された行動が本来自分がやりたいことなのかも知れないのに、それを罪悪感で抑制するから、実際それをやっている人を見て羨ましさが妬みとなり、怒りとなって表れている、そんなことが実際にあると思う。
 
それならやってしまった方がよほどいい。やってみて自分の気持ちを確かめてみれば良い。それが好きなことなのか、どういう気持ちで罪悪感や怒りを感じるのか、何が自分の感情を揺さぶるのか。
 
それで、本当に嫌なことならやめれば良いし、楽しければ続ければ良い。そうやって自分のタブーに触れてみて、そのタブーがどこから来ているのかを感じること、そうすることで、自分軸を取り戻せるそう思う。そうやって自分を取り戻すために行動することにこそ価値があると思う。他人から非難されることもあるかもしれないが、非難する人はその窮屈な価値観の元で非難してきているのだから、かわいそうな人なんだなと思えばいいし、そうやって非難されることこそ、自分にとって必要なことである可能性が高いと思う。
 

 
「人のふり見て我がふり直せ」という諺がある。
 
これは人がやってる悪い事を見て、自分がそれをやらないように自分を律することって捉えてると思うが、そんなの窮屈だ。
 
そうではなく、人がやっている事を見て、羨ましい、楽しそうだと思ったのならそれを自分もやろうとして、雁字搦めになった自分の窮屈な価値観をぶっ壊して、本来の自分を取り戻す、自分が何が好きなのかを再発見する、そういう意味で使うべきだと思う。その方が楽しくはないかとそう思う。
 
少なくとも、これからの人生、私はその方向で生きていきたい。
 
迷惑をかけるかもしれない人、ゴメンナサイ。
先に謝っておきます。
 

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