自分を表現できないことに対する罠 〜 自分の言動が原因で誰かを怒らせた、誰かに嫌われたなんて幻想に過ぎない

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他人が自分のことをどう思うかを気にするあまり、自分の意見をはっきり言えない。これは多くの人が感じている気持ちなのではないかと思う。自分の考えを表現するのが恥ずかしいと思っていたり、自分の意見なんて価値がないと思って発言を躊躇することが良くあるのではと思う。
 
どうしてそのような考えを持ってしまうのだろうか。
 
実際、そういう人に対して発言を促すと、実は非常に熱い想いを持っていて、とても素敵な意見を述べることができるのに、なぜか不安に思っている。
 
自分の言動によって誰かから非難されたり嫌われるのではないか、それを気にするあまり自分に制限をかけてしまっているのだろう。きっと過去に自分の言動により誰かを怒らせた、誰かに嫌われたという経験があり、それが負の感情(恐れ)となって自分に制限をかけてしまっているのだろう。
 

他人が怒りをあらわにしたり、自分を嫌ってきた場合、どうしても自分が悪い、自分のせいで相手を怒らせた、自分が悪いから相手から嫌われたと思ってしまいがちだ。
 
でも、それって本当なのだろうか。
本当に自分のせいで怒らせてしまったのだろうか。
自分が悪いから嫌われたのだろうか。
 
相手が怒ったりあなたを嫌いになったりするのは、あくまでも相手が決めていることであり、それが自分の何かに由来するのかどうかなんて分からないはずだ。それなのに、自分が何かをしたからだとか、自分があんなことを言ったからだとか、そうやって自分を責めてしまっているだけなのではないか。自分に原因があると自分が勝手に思い込んでしまっているだけなのではないか。
 
問題はその方にある。
 
相手が怒る、自分を嫌いになるってことはあくまでも相手の話。言うなれば、相手は勝手に怒っているのであり、勝手にあなたのことを嫌いになっているのだ。もっと言ってしまえば、「怒る人は何をしても怒るし、あなたを嫌いになる人は、何をしたって嫌いになる」のだ。
 
他人のことはコントロールできないのだから、怒られないように、嫌われないようになんて行動は、本当に無駄な努力に過ぎないと思う。他人の目線を気にして自分の何が悪いとか、どこが悪いってことをあれこれ考えてしまい、挙げ句の果てには自分を悪者にしてしまう、その流れにこそ問題があるわけで、自分の言動の良し悪しはあくまでも自分の目線で考えるべきなのだ。
 
判断軸は全て自分にあるはず。
 
誰かが怒ろうが、あなたを嫌いになろうがそんなことはどうでもよく、問題は自分の在り方がどうなのかということだと思う。自分の言動が自分の信念に基づいてのことであれば、他人の目線なんてどうでもいいのではないか。世間体や常識なんてものも他人目線のことであり、結局、やっていることが自分のやりたいことなのか、自分の信念に基づいたものなのかということなのだろうと思う。他人の目線を気にしたり、他人の評価を気にしたりしても、他人のことなんてコントロールできないのだから、必要なのは自分の軸で判断をすることなのだろうと思う。
 
今まで、人に怒られた、人に嫌われたことを自分のせいにしてしまい、そのせいで他人の目線を恐れるようになっていたとしたら、それはあなたのせいではないから心配せず、自分のやりたいことをやって、自分の意見を、自分のことをどんどん出していけばいいと思う。
 
そもそも、人の意見を聞いて怒る人、人を非難する人、その人の方が間違っているのだから。
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