自分の前にいる優しい人が急に怖くなって自分を裏切るのではないか、明日には豹変するんじゃないかとそんなことを考えてしまう。目の前に心から信じても良い大切な人がいるにも関わらず不安になってしまう。今日は優しくても明日は自分を否定してくるのではないか、そういう不安がある。だからどうも人を信用できない。
私の友人の話だ。
誰もがこういうことを思っているのかは分からないが、多少はあるのではないかと思う。
そんな時は、目の前にいる相手を信用できていないのではなく、自分自身を信用できていないのだろうと思う。自分自身がその人から本当に愛されているということ、その価値があるのだということを信用できていないのだ。自分の価値を認めてないから、自分が裏切られるかもしれないという恐れがあり、それによって価値を失ってしまうのではという恐れがあるのだろう。
私もどこかに自分を信じられず、他人を信じ切れない自分がいて、いつもどこかで裏切られるのではないかとそんなことをずっと思っていた。いつも仲良くしている友人にすら、多かれ少なかれ、そんな気持ちを抱いていたと思う。
私の場合は、ある日小学校に行ったら急にみんなが冷たく、昨日まで話をしていたクラスメートも私が話しかけたら返事もせず何処かに行ってしまう、そんなことがあった。それは、ただただ恐怖だった。小学校という本当に小さな閉鎖空間で孤独になることはひたすら恐怖だった。その恐怖から逃れるために色々と混乱して生きてきたのだと思う。それこそ、小学校時代から何年経ったのかもう良く分からなくなった今になっても、ふとした時にそんな不安が鎌首をもたげてくることがあるのだ。
私の友人の場合は、自分の親が、優しかったと思ったら翌日には機嫌が悪いことがあり、優しい親を求め、厳しい親に怯えてたことが原因なのだろうと言っていた。本人からするとそういう不安が苦しく、「それならまだ一人の方がマシだ」なんて、投げやりな気持ちになり、本当はずっと一緒にいたいのに現状をぶち壊したくなるらしい。
他人から傷つけられることを恐れるばかりに、恐れている自分が正しいことを正当化するために、自分はやっぱり裏切られるんだということを証明するために、自分で自分を傷つけることがある。どうせ自分なんてと諦めたり、裏切られるんだという証拠を見つけて自分の考えを正当化しようとする。裏切られなかったことが当然なのではなく、そちらが偶然だと思い込もうとしてしまう。
目の前の人が大切な人であるからこそ不安になるのだろう。私から見ると、「そんなわけないよ、絶対大丈夫だよ」ってそう見えるし、それがきっと事実なのだが、頭ではわかっていても心が悲鳴を上げているように思う。
本当は寂しいだけなのに、本当は優しくしたいのに、本当は信じていたいのになぜかそうできない。どんなところでも自分自身の本心を出せず、仮面をかぶった状態で人と付き合うことになるから、また人との付き合いが苦しくなる。そういう悪循環の中でもがいているようなそんな気がした。
そんな時は、他人のことなどどうでもいいから、自分のことに集中したらいいと思う。他人が自分をどう思っているかなんて所詮わかるはずもないし、他人からの評価を意識した瞬間に他人の軸で物事を考えるようになる。嫌われないようにとか、どうしたら好かれるかとか、どうしたら魅力的に見えるかとか、他人の軸をベースに自分の考え、行動を制限しようとする。
過去に嫌われた辛くあたられたからといって、これからもそうだってことはありえない。過去は過去だし、今どう生きるか、どんな人と付き合うのかで未来は決まってくる。自分の過去を誰も知らない場所に行けば、過去なんて簡単に変えることができる、その程度のものだ。だから、過去なんかにとらわれるのではなく、今この瞬間を楽しみ、その延長上に未来があると考えた方がいい。
どうせ分からない他人の意見を気にすることなど必要なく、自分自身のことに集中して、自分自身が喜ぶことを続けていくことが一番良いんだろうと思う。自分の頭にある他人からの評価は、自分が自分に向かって言い続けている自分自身の評価だと思った方が良い。全ては自分の内の中で起こっていることであり、自分と他人とのことだと思っていることの方が間違いなのだ。